私の出産 その6

2017-09-21

お腹の傷口をかばいながらなんとかベビー室にたどりつくと、「星谷みよ子の子」と腕にタグをつけられた赤ちゃんは分娩室の脇に移動されていました。

やはり看護師たちは忙しそうで、その小さな命はたった一人で苦しそうに呼吸をしていました。私を見つけた看護師は酸素マスクを私に与え、少し離した状態で口元にあてるように言いました。もし心臓の疾患なら多くの酸素を与えるのはよくないそうです。

そのクリニックには小児科医はいなかったため、提携病院への搬送の手続きを進めていました。運よく広尾の日赤(日本赤十字センター)が受け入れることになり、救急車を待ちました。当時は救急車が来ても病院からの受け入れ拒否で搬送中の患者が死亡したり重症化する事故が多発していた時期です。娘がだいぶ回復してから聞いたのですが、小児のNICUは満杯で、大人の集中治療室を利用するという配慮の上受け入れいれてくれたそうです。

救急車が到着するまで時間にして30分程度だったと思いますが、長い長い時間に感じました。

ようやく救急車が日赤へ向けて出発した後は茫然とするしか他に何もできませんでした。おそらく自然分娩なら一緒に付き添うこともできたかもしれませんが、帝王切開の直後であったため、外出は許されなかったのです。会社へ向かっていた主人に連絡し直接日赤に向かうようにお願いしました。
病室に戻り、私の目に浮かぶのは大きな担架の中央にチョコンと乗せられた専用保育器の中の娘の姿です。ひょっとしたらそれが娘の生きている最後の姿だったかもしれない・・・。

日赤への同行から戻った担当医師が私の病室に来て心臓疾患の可能性が高い旨を聞かされてから、考えたくない結果を受け入れる準備をするしか他にありませんでした。

夜になってようやく主人が戻ってきました。
彼は淡々と到着後の様子や診断結果に関して話してくれました。
日赤ではありとあらゆる可能性の中から10前後の疾患に絞り、その中でも敗血症の可能性が濃厚だということで、抗生剤の投与を開始したとのことでした。通常、細菌の培養試験は1週間ほどかかります。

敗血症は細菌が血液中に入り、脳や内臓を破壊して死に至る非常にシビアな病態です。たとえ、命が救われたとしても髄膜炎を併発し一生脳に後遺症を残すこともあるそうです。

それから毎日、主人は仕事を終えるとまず日赤に行き娘の様子を確認し、私の病室まで状況を知らせに来てくれました。写真はありませんでした。元気になってから聞きましたが、当時は身体じゅうにいろんな装置をつけられ痛々しい様子で、とても写真を撮るような気持ちが起きなかったのだそうです。

私の頼みの綱は主人しかいませんでした。両親は田舎で離れて暮らしており、元より実母にはこのことは伏せていました。血圧が高くおそらくこの状況に耐えられないだろうと思ったからです。その前年に脳梗塞を患っています。そしてさらに追い打ちをかけたのが、主人は私と同じ会社に勤務していましたが、赤ちゃんが危険な状態にある旨のメールがあっという間に生き渡ったため誰も私に連絡をしてこなくなったのです。

確かに「おめでとう」メールが届かなくなったのはありがたかったですが、さすがに一日じゅう一人で慣れない病室で痛みと戦いながらの悶々とした時間は私の精神も蝕み始めました。誰かに助けを求めなくては・・・。

職場の近しい上司や同僚にメールを打つと、そのうちの数人が飛んでくるようにお見舞いに来てくれました。不運な状態に陥っていると聞いたけど、どうしたらよいのかわからなかったそうです。心の底からありがたいと思いました。

闘病生活が始まり4日目のことでしょうか。赤ちゃんがミルクを飲み始めたと嬉しい知らせが飛び込んできました。滞っていた体じゅうの血液が再度めぐり始めたような感覚を覚えました。

あの子は生きている。生き始めた。
もうそれだけで充分。発達の遅れや障害は残るかもしれないという静かな覚悟をしながらも、その小さな命の生命力に感謝するしかありませんでした。

今娘は9歳になり、自分が救急車で運ばれ一時は非常に危険な状態であったことを話すと、にわかに信じがたいという表情を浮かべます。それは私も同じです。今では健康そのもの。5歳からは風邪さえもひきません。

これは日赤の医師の話にもとづく私の推測です。陣痛が弱かったために医師の手により人口破水させたのですが、その際に細菌が子宮に入って羊水に伝わり、赤ちゃんの口に入ったのではないでしょうか。

通常、子宮内は無菌状態です。妊娠中の検査の感染症の検査でも2回とも問題はありませんでした。前日にシャワーさえ浴びなかった自分を責めました。クリニックを責める気持ちもありました。シャワーの案内どころか陣痛が続く私にほとんどノーケアだったのです。このほかにもクリニックをいまだに恨み続けるだけのことはいくつもありました。私が製薬会社に勤務していなければ法的手段に訴えていたところです。

この前年に父が心筋梗塞、その2週間後に母が脳梗塞で倒れたのですが、その際も痛感したことが、病院によって診断技術や治療の品質は雲泥の差だということです。私は高年出産でありながら、その危険性を十分に行動に移していませんでした。もっときちんと対応してくれたであろうクリニックや病院はありましたが、仕事や休日の過ごし方を優先し、近場で予約の取りやすいクリニックを選んだのです。

それでも、日赤が受け入れてくれたこのが何よりの幸運でした。
娘が到着するやいなや、5人の専門医が小さな保育器の上で頭を突き合わせ、ああでもない、こうでもないと、産婦人科クリニックの担当医師の心臓欠陥の可能性も真に受けることなく、正しく診断してくれたことに感謝の言葉も浮かびません。あと数時間対処が遅れていたら、娘の誕生日翌日は命日になっていました。

そして、分子栄養学を学んでいくうちに、そもそも元凶となった微弱陣痛と私が習慣としていたあるものに関連があることを知るのです。